東京・渋谷で活動するカトリック教会を育成母体としたボーイスカウト。ボーイスカウト渋谷第5団の公式ホームページです。

ボーイスカウト夜話2


Scout Yarn


目次
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1.野営の楽しさ

 野営の経験のある人なら誰にでもキャンプについての憶い出があるはずである。私も例外ではない。しかしどういうわけか、お腹をかかえて笑いころげたような憶い出は比較的脳裏にうかんでこない。むしろ私の記憶にあるのは、野営の時の苦しかったことが今となってはありありと思いうかんでくる。遠くはなれた所への水くみ、雨の中での設営と撤営、冬の寒さの中でとうとう眠れぬ一夜をおくったことなどである。前日の激しい作業、情け容赦なく降り続ける雨の中での設営などのあとで、翌日のカラリと晴れ渡った空とあたりをみまわすときの気持ち、空気のうまさ、谷間のせせらぎを流れる、透きとおった、氷のように冷たい水。どれもこれもすばらしいものばかりだ。そのうち朝露をふんで郭公の声がきこえ、もやの中から一筋の煙がたちのぼる。この光景をみれるのは野営の経験のある人だけに与えられる特典なのだ。太陽が遠く山の端に沈み、夕もやをついてきこえる梟の声、またのぼる一筋の煙。まるで桃源郷にでもきた気分になる。このようにして野営には、苦しみがつきものであるが、反面、野営は我々に惜しみなくその良さをあじわせてくれるのである。私もこれまでにいろんなキャンプを体験した。だが憶い出、しかも楽しい憶い出というものは、つまりは苦しかったことだけだということである。野営で汗を流すことは、それだけいっそう、野営の楽しさというものを見出すということなのであり、結局は苦しさが楽しさになるのかもしれない。



2.班長・次長・班員

 私には幸か不幸か、ついぞ班長のみならず次長としての経験はない。班員として行動したのみである。だが班員として考察したところによると、一つの班員数が大体6~7名だとする、するとそこから一人、班員の間から皆が敬服出来るような素養をもった者が班長としての仕事をするわけである。班長はそれだけに班員の気持ちをよく理解してやると同時に、彼等を引率するだけの責任がある。人数がふえればふえるほど、それがむずかしくなるのは当然のことであるが、一人一人個性が違っているので、統率してひっぱっていくにはかなりの努力が要求される。しかしその彼にとってもよき助手が要る。即ち次長である。次長の仕事は一見陰にかくれていて目立たないものであるが、これまた非常に努力を必要とする役目でもある。ある一つの団体の中で責任ある立場にたつと、いろいろの問題が生じてくることに気付く。
 各班を代表する班長と次長はいわば家庭のおとうさんとおかあさんの様な関係である。従って班員を導いていくには二人の協力が絶対必要であり、かつ班員も班長と次長には事が円滑に運ぶように協力しなければならない。何かをやる場合、二人だけでは出来ない。班員が協力することが必要なのである。それ故に、自分たちの班が最も統制のとれた、結束のあるものにするには班長と次長と班員の三者の結びつきがより堅固にして、理解に富んだものでなければならない。そして班長、次長、班員を繋ぐものは夫々の責任であるということ、つまり各自が各々の責任分野を完遂してこそ初めて喜びと、笑みと、進歩のある班が出来るということが言えるであろう。
 何か新しいものを生みだそうとするならば、これら三者の協力のほかに貪欲なまでの探求心と班全体の練磨というものがあってこそ班の進歩は可能なのである。つきまとう困難や不満には笑って耐えねばならぬ。
 それが君達にとって必要な試練といえるであろう。



3.奉仕をする喜び

 諸君の中で、他人に奉仕するのが大好きだ、と言える人はおりますか?
 実は、菅野隊長より夜話の原稿を依頼されまして、今、私が諸君に奉仕する立場にあるわけです。ところが、表題が「奉仕をする喜び」とあってまさか代わってもらうこともできず、やっとのことで重い筆をとったしまつです。
 「奉仕」はスカウト活動の目的とする四本柱の一つであります。「人格」「健康」「技能」の向上は、自分のことであるだけに誰でも喜んで実行できるわけです。しかし、残る一つは自分の利益を離れ他人の為になるのですから、損だ!と思うのも無理ではありません。
けれども、スカウト活動に参加する以上、奉仕は義務であり、しかも、喜んでやれと言われるのです。
 理由は、と問うと、諸君も、私達は人間である。受けた恵みにお返しをするのは当然だ、と答えたでしょう。確かに、人間社会は網の目のように複雑に結び付き、互いに影響し合っているからです。そのことは漢字からも十分にうかがわれます。「人」は大の字になって立っている象形ですが、同時に、人が互いに寄り添って助け合いながら立っている姿でもあるのです。また、「人間」はそのまま人の間であって、人間である限りおよそ自分一人だけということは有り得ないのです。それ故に、社会の向上と自己の向上が無関係でないこともわかってくるはずです。
 ある人が猿に鏡を見せたとたん、猿は鏡にいどみかかった、という話があります。歯をむき出して自分に攻撃しに来たと思ったのでしょう。他人の物まねはうまいのに、自分のことがわからないとはおかしいですね。
 人類は、鏡を作るはるか昔から水に自分の姿を映すことを知っておりました。鏡に映して自分のあるべき姿、いや、もっとすばらしい姿に正そうとするのが人間の本能かもしれません。
 私達の仲間でも、自分の利益ばかり考えて行動している人をみると、何となく獣じみた感がします。いや、利口なだけ獣よりもっと恐ろしく思われるものです。人間の行為や心の動きを映す鏡が有れば便利ですね。
 しかし、他人を客観的に見るならば、あるていど自分のこともわかるものです。さらに、こんどは自分を離れて、他の人が自分にやってくれたことを自分自身でやってごらんなさい。いやいやながらでも、物まねと言われてもかまいません。これを繰り返してこそ、社会の中での立場を理解し、自分のとるべき姿・行為がはっきりして、これを正すことができるのです。
 自己の利害を超越して、喜んで奉仕することができる時こそ、仰いで天に恥じず、大地に両足をふんばって一人立ちしている姿です。いわゆる「大人」「大丈夫」とは、このような人を指して呼ぶのです。(漆畑昌坦氏寄稿)



4.神様

 私たちはボーイスカウトだと言う前に、スカウトにとって大切な事をなしているかと自問するのは大切ではないだろうか。私達は何の為、何をしなくてはならないかという事を。それには、まず私達がスカウトとなる時のことを思い起こしてみよう。隊長の前で隊旗をしっかと掴み名誉にかけて誓った事を。「神と国とに誠をつくす。」神とは、誠を尽くすとは、何をどうすればよいのであろうか。
 「神は愛である。愛のうちにいる者は神におり、神も彼にいます。(聖ヨハネ)」神は永遠から、人間が神を愛する以前から私たち人間を愛されていた。と言われる様に、「神」は愛であるという。愛とは何であろう。スカウトは神の愛に答えるには、何をすればよいのだろうか。それは前にも記した、誓いです。神に対し実行を誓った誓いです。この誠、援け、そして徳、この三つの中にスカウトとして、神の愛に答える全てが含まれています。この三つを私達スカウトが社会生活の中で実行することが、神に答え良き社会人となるためのものなのです。
 さて、私達が生活する人間社会には、二つの基礎となるものがあります。一つは正義、そしてもう一つは、この愛です。この社会生活での愛をわかり易く言い表すと、隣人愛と言えます。正義は私達の社会生活には極めて重要な事ですが、これだけでは充分とは言えません。これだけですと心のあたたかみがなく、社会は冷たいものとなります。幸福な社会を作る為には正義以上のものが必要です。それが隣人愛です。隣人を助け他人の善を望み、その人の為に計り一層幸福にしてあげたいという真の好意と、力の及ぶ限り態度と言葉と行為によって表そうと努力するもの。これが隣人愛です、そして愛です。私達が自分を大切にし愛すると同様に、他人をも愛せば良いのです。唯この愛が盲目的であってはなりません。この隣人愛というものは、自分への愛、自分を正しく愛せるものでなくては、真の他人への愛はないのです。さて私達スカウトは、これを唯口で言うだけではだめです。真に愛の心を持てば、心の中がこの愛で満たされれば、おのずと言葉にも表れ、そして当然行為、態度にも表れてきます。隣人を愛するものは常に慈愛の心があり、好んで他人と共に働き、必要があれば犠牲をも省みず、他人のために尽くす心構えができていることが大切です。愛を実行する機会は、色々あるが、その実行する機会に対し奉仕を拒んだり、一応奉仕はしても、無愛想で気の進まぬ顔でしたり、喜んで奉仕するにも必要にせまられねば奉仕しないというのでなく、私共スカウトは、自分から進んで機会を求め奉仕を申し出る人でなくてはならない。そうでなくては、真のスカウトとは言えず、より大きな愛は持てないことになる。この愛(隣人愛)をしっかり持ったスカウト達の居る班、隊、団は、チームワークのとれたしっかりしたものとなり、その社会はよりよくなることは疑う余地がない。なぜなら愛は心の徳であり、この徳を持った者こそ、世の中で一番尊い事をする美しい人であり、真に神の子となれるからです。(河井宏文氏寄稿)



5.無名スカウトと無名戦士

 1909年、霧にとざされた冬の夕ぐれ、ロンドン郊外の駅に、一人の紳士が、地図と旅行カバンを持って、汽車から降りた。紳士は行く先がわからなくて困っていた。キビキビした少年が現れたので、紳士は道をたずねた。少年は「私が案内しましょう」とカバンを持ち先に歩いた。目的地に着いたので、紳士は、銀貨を出しチップとして少年に与えようとした。少年は「私はボーイスカウトです。お礼はいただきません。私に一日一善をさせて下さってありがとう」とニッコリしてヤミの中に消えた。
 どこの国の少年も、こんな時は喜んでチップをもらうのに、それを断り、逆に礼をいって立ち去るとは・・・紳士は驚いた。ボーイスカウトだから、といったが、それは何であろう。友人に聞くと、パウエル卿が、昨年はじめてつくった少年運動だと答えた。紳士は米国人のボイスという有名な出版業者だった。ボーイスカウトについての書物を全部買って、米国に帰り友人と話し合い、スカウト運動がアメリカに発足したのは、1910年2月8日のことであった。
 15年後には、全米にこの運動がひろまり、その数は百万人を越した。米国スカウトは、その功労者を表彰することになって、いろいろ考えてみると、第一は、ボイスを案内した英国少年だということになり、英国スカウト本部に頼んだり、人を派遣したりして捜してもわからない。名乗ってほしいといっても出ない。それで米国側では、協議のすえ、米国スカウト功労賞のバファロー(野牛)の形と同じ型の銅像を作り「日々の善行を努めんとする一少年の忠実が、北米合衆国にボーイスカウト運動を起こさせた。アンノン(名の知れざる)少年のために」と書いて、贈ることになった。
 1926年6月4日、ギルウェルの森-これはボーイスカウトのメッカであり、指導者訓練の総本山の道場ともいうべきところ-で厳粛に、贈呈式が行われた。その銅像はいまでもギルウェルにある。
 もう一つの逸話である。太平洋戦争も末期のころ、南太平洋の、小さな島で、日米両軍が死闘を繰り返していた時、重傷で倒れた米兵の目に、一人の日本兵が銃剣で突っ込んでくるのが見えた。重傷で動けず、目を閉じたら、気を失ってしまった。
 やがて気づくと、日本兵はおらず、そばに紙切れがあった。米国赤十字に助けられてからその紙切れを読むと、「私は君を刺そうとした日本兵だ。君が三指礼をしているのをみて、私も子供の時、スカウトだったことを思い出した。なんで君を殺せよう。傷は応急処置をした。グッド・ラック。」と英語でかいてあった。その米兵はスカウトだったので、死せんとするにあたり、無意識に三指礼をしていたのである。この無名戦士の話は長く消えぬであろう。(三島通陽総長「ボーイスカウト十話」より)



6.努力を怠らない




親愛なる君へ


 君はボーイスカウト東京138団の少年隊員であって、君にはすばらしい両親や、兄弟や友達がたくさんいることを隊長は知っています。そして今、現在、君が138団の団員であるということに隊長は非常な誇りと喜びを感じています。
 さて君は過去において、きれいな夜空をみたことがありますか。おとうさんと、あるいはおかあさんと、または君の愛すべき兄弟とそうした経験をもったことがありますか。もしなかったら、隊長は君にきれいな夜空、しかも星が輝く空を見ることをすすめます。その星の一つ一つは実は今から何百年あるいは何千年も前に出発し、長い年月をついやして地球にとどくのです。そしてその一つ一つの星はあまり輝かないものもあるかもしれません。でも全体からみると、とても調和してそれぞれが自分の光というものにまるで満足を感じているかのように輝いているのに気がつくことでしょう。つまり夜の星が広い天界に美しい色どりを添えるのは、それが全部協力しあっているから私達の目にはまとまってみえるのです。君のみならず、138団が生んだ幾多の人材は皆この様にして出来あがっていったのです。そして君自身もまた、その様な栄誉ある138団の歴史に輝かしい1ページを作ってくれるものと隊長は期待しています。それにはまず、自分のする全てのことに自信をもつこと、そして出来うる限りの努力と犠牲をはらうこと、これが忘れてはならないことなのです。
 隊長は今までに、あらゆることを通して数多くの経験をしてきました。でも隊長といえども人間です。中にはむずかしい事もたくさんありました。しかし隊長はそれなりに努力はいつもおこたりはしなかったのです。もし君が現在、あるいはこれから何か責任のある立場にあるとしたら、今述べたことが一層重要であると気づくでしょう。人間は男と女を問わず、自分というものを生活環境に応じさせる能力は、進化論のような進歩をとげることだけではなく、真に教養として高めてよい、実際的な何かを証明していくことだと思うのです。君には幸いにも人を導く、すぐれた能力があります。隊長はそれを誰よりもよく知っています。君は決してひるむことはないのです。なるほど前途は暗くてわからないが、しかしおそれては何事も出来ないものです。君は自分で自分自身を開拓していく手段とすばらしい頭脳をもっています。それがあれば君に出来ぬことはないのです。隊長と君の年令の差は、それが現にあってもそれ以上の何物でもないのです。つまりその差だけ隊長は食事の回数を多くとっているだけだと解すればよろしいでしょう。
 人間は生まれながらにして神様がお与え下さったものを誰もがもっています。それを有効に使いのばすか否かは、それは君自身の旺盛な知識欲にかかっているといっても、いいすぎではないでしょう。今や君にとっていえることは努力だけなのです。全てに対し努力をすること、そうすれば隊長と同じくらいの力をもてるでしょう。そして君が真にそれらに対し充分な努力をはらうと同時に、確固とした正義感の強いスカウトとして成長することを隊長は約束しましょう-もし君が努力を怠らなければ・・・。
 君も隊長と同じように、これまでに、いろんなことを通して本当に数え切れないほどの経験をつみました。それらを経て今日の君があるのです。そういうことからしても、君は他の人とおとった所はないし、むしろすぐれた面が沢山あることを隊長は知っています。うしろをふりかえらないこと、努力をすること。そして目的にむかって進むこと。隊長は君の友人であることを誇りに感じています。君が努力をすればするほど、それだけいっそう君を誇れるのです。君が得ようとしているものは、君の手にとどく範囲にあります。そしてそれらは努力をすれば容易に手に入るのです。
 隊長は、全てこれらが君にとって簡単だとはいいませんが、君が少しでも努力を払うであろうことを確信しています。
                          隊長より


親愛なる君へ


 隊長は君に、この前の書簡の中で、人間にとって努力を怠らないということがどんなに大事であり、またそれが結局は成功の原因であるということをいいましたが、大体その内容はわかってくれたと思います。しかも最善を尽くすということも、また大事であるということを理解してくれたと思います。隊長も小さい頃は体を大きくしたいばっかりにいろんな肉体的、あるいは実際的努力をしてみました。すると意外と自分の思う通りになったのです。もちろん、それは長くて苦しいものでした。それ以来隊長は、神様は努力を怠らない人に対しては、それ相応のことをして下さるものだと思いました。又、君は多分知っていると思いますが、アメリカ合衆国は、これまでに何人もの偉大な、そしてすぐれた大統領を生みました。ワシントン、リンカーンなどがそうですが、その中にルーズベルト大統領と、暗殺の凶弾に逝ったケネディー大統領がいたこともまた知っていると思います。二人の大統領は共にスカウト出身でした。そして日頃の努力を決して忘れなかったので大統領という要職にむいた人間となったのです。
 さて今まで述べたことは、ほんのエピソードにすぎません。しかし君にとっても、また隊長にとっても、ためになったと思います。ただしここで隊長がいっていることは必ず偉い人になれといっているのではないということ、ある目的にむかって、常に努力を続けるということ、つまり結果が不成功に終わったとしても君が最善を尽くしたのであれば、それで充分なのだということを理解して欲しいのです。隊長は君に百パーセントのことを要求はしていません。マイ・ペースでいくこと。たとえ失敗に終わったとしても、それを恥じる必要はないのです。この次から失敗をおかすまいと努力すれば、それでよろしいのです。君は第一義的にいって神の子であり、次に中学生であり、そしてスカウトであるということ、これらは実は深く一本の綱で結ばれたものなのです。ですから学校で努力することは、すぐにスカウティングにも通じるし、スカウトで努力することは学校のことにも当てはまると思うのです。「何事も発見しようとの希望をもって探求し、更に探求しようとの希望をもって発見しよう」、これは聖アウグスチノの言葉です。君はすばらしい、そして誇ってもいい立派な御両親と兄弟に恵まれています。まずそれを感謝せねばならないでしょう。君の現在の環境に少しでもむずかしいものがあるとすれば、一つずつ、計画的にそれに勇気を持って立ちむかって下さい。それをおそれてはだめです。おそれるのはスカウトではないといえるでしょう。君が必要とするならば隊長はいつでもそれに出来うる限りのアドバイスをしてあげたいと思います。そしてそれらの気風が今度のプログラムにどう生かされるか楽しみにしています。君にやってやれぬことは何一つないのです。隊長はそのことを他の何にもまして誇りに思っているのです。
 最後に一つの諺を教えましょう。これは隊長が初めてスカウトになった時、その時の隊長が私におしえて下さったもので、今でも心の中に残っているものです。「精だせば、凍る暇なし水車」
                          隊長より


親愛なる君へ


 入梅の時期はとかく不健康になりがちですが毎日を規則正しく過ごしていますか。雨期という特別な自然現象の中で暮らしていくには、それ相応の努力が必要です。それは君の日常生活の態度にかかっています。しかもそれらは生活の知恵ともいわれるべきものでなければなりません。どうかくれぐれも不健全にならないように。
 さて隊長は君にこれまで二回の書簡を送りましたが、内容はわかってくれたと思います。現在どんな偉人といわれている人ですら日頃の努力を怠らなかったことが今日の彼等たらしめたということ、そして人間から努力をとってしまえば半ばおしまいであるということ、また将来のよりよい生活においても努力は欠かせないものであることなど、それのもつ範囲と価値は広いものがあるということも理解してくれたと思います。一連の隊長のお話も今日でもって終わろうと思いますが、最終回のこの話がしめくくりとして、幾分なりとも決定的な隊長の、全てに対する考えというものを、君にのべてみたいと思います。
 いろんな場面を通じ、おびただしいほどの経験をつんだことは前にもいいましたが、それらのいくつかは自らのものであり、またあるものは諸先輩から実際に学びとったものも沢山あります。それらの一つ一つを長い年月を経て、あらゆる分野に応用することを隊長は忘れませんでした。とりわけ、それらを実践するということは本当に苦痛でしたが、反面楽しいものでした。今日それらの多くが隊長の性質を示す、全くゆるぎのないものとして、それははっきりといえます。しかしそれらの中には常に4つの鉄則がありました。つまり成功への4つの代償とでもいうべきものですが、それをこれから順を追ってわかりやすく説明しましょう。
一、準備に労はつきものである。
 何事をするにも準備は欠かせません。もし隊長が何の準備もなしに君達をキャンプにつれていったとしたら、また君が責任ある立場にあって何かをする場合、準備をしていなかったとしたら、また試験の時など、その結果がどうなることぐらい容易に想像できるでしょう。そうです、少しでも成功を求めるならば準備を充分にするということ。労を惜しんでは成功は期待出来ないのです。
二、他人の成長を助けること
つまり自分だけでなしうることは、ほんの一部であるということ。我々の周囲には多くの人々が住んでいますが、それらの人々は、皆が社会の繁栄のために毎日自分の仕事を果たしているのです。そしてそのことが偉大な結果をうむのです。でも一人だけではそれはなしえません。自分が他人よりも、ある点において少しでもまさっている所があれば、それを利用して他人の不足の所を補ってやるということと、それはとりもなおさず、他の人達の成長を助けることになるのです。自分だけの成長ではだめです。相手のことも考えて、初めて立派な成功が期待できるものなのです。
三、高次な目標
 あまりかけ離れたものであってもいけませんが、君のみならず隊長にとってもまた、これは必要なことです。目標がなければ何をやっていいかわからず、いい加減なものになり、また張り合いがないから、何ら喜びがありません。しかも、その目標にむかう努力こそ、日々の進歩を私達にもたらすものであり、これを欠かせば、やはり成功は君の手の届かないものになってしまうでしょう。
四、責任
 いつも言うことですが責任の言葉の意味は、大きなものが動くには歯車が必要だと仮定するならば、責任とはその歯車の一つ一つの歯をさすのです。そのうち一つでもかければ動くことは不可能になります。何事をするにつけても責任は伴います。しかもそれは君の努力しだいによって責任を果たしたとか、果たさないとかがいわれるのです。このことは以上述べた三つのことと分離して考えることの出来ないほど重要な意義をもっているものなのです。成功するには責任を果たして下さい。
 「最後に笑うものほどよく笑う」の諺通り頑張って下さい。真の勇気とは、輝かしい英雄的行為よりも、かえって断固とした主張とか、平静に変化に応ずる態度とかのうちにこそあるものなのです。最後に今回もふくめて、これらの書簡が君の友情ある理解をもって受け入れられたことを心から感謝いたします。人間は誠実で紳士でなければいけません。
最も親愛なる友人たる君に、心をこめて。
                          隊長より


7.スカウティングの本質

 無名スカウトにまつわる物語はすでに君達も知っていることと思うが、それが原因となってアメリカに今日のボーイスカウトの基礎がなされたこともまたよく知られている。そもそもボーイスカウトの歴史は英国に於いて始まる。ベーデン・パウエル卿がその創始者であり、卿は夏の一定期間を、今までの体験と日頃の鋭い少年達に対する考察から彼等に今日のスカウトが行っている訓育を施して非常な成功を収めた。このことはイギリスのみに留するものではなかった。やがてそれは真理を逸脱しない普遍性と妥協性とをもって世界各地へと広まっていったのである。
 ボーイスカウトには「誓い」と「おきて」と標語として「そなえよつねに」とそれにスローガンとして「日々の善行」ということが徹底されている。この運動の目的はひたすらに公民を教育することにあって、その行程に用いられる進歩制とか技能章制とか-もっと詳しくいえば手旗とか救急とかいったものであるが-これらは彼等をある意味において向上させる手段であってそれ以上の何物でもないのである。そこには永遠に不変である真理が存在する。すなわち少年の育成に最も大切である年頃の10才ないし18才の青少年達を正しく導き、よい品性を身につけさせ、強健な身体に鍛錬し、種々の技能を習得させ、喜んで社会に対する奉仕が出来る、国際愛をもった、立派な社会人に育てあげることがボーイスカウトの運動なのである。「鉄は熱いうちにうて」の諺どおり、人間も成人してからでは、習癖もなかなか治るものではない。少年のうちに善導することこそ立派な公民を作る礎なのである。こういったことは、子供の親として、また社会人として真剣に考えなければならない問題の一つである。なぜなら子供は社会のものであるからである。



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